胎動(一)
星下暦三三三年。
「おやすみなさい」
母親は少女にあいさつし、床についた。少女からの返答はないが、それも慣れたことだ。だが、いつの日にかきっと返事をもらえるはず……、その思いが母親の心に巣くっている。それがいつの日なのかはわからない。むやみに期待できる時期は最早過ぎた。母親の心は期待に胸踊らせる時期をとうに通り越し、老成というのか、達観できる時期に入り込んでいる。
その日も普段と同じ一日だった。隣家の農作業を手伝い、目覚めることのない少女の寝汗をぬぐってやり……、いつも通りのことを過ごしているうちに日が暮れた。
少女の眠る寝床に入り込んだ母親は、とくに何かを考える暇もなく眠りにおちていった。毎日の日課といえども、肉体は疲労しているらしい。精神が麻痺しきって眠気を覚えないとしても、肉体が彼女を眠らせる。
眠りながら夢を見る人々がいる。母親も昔は夢を見たものだ。夢、というものに意味があると考えるものもいれば、意味が無いと考えるものもいる。
ここに越してきた当時は、都市での暮らしを思い出す夢をよく見たものだ。その夢の中では、夫も娘も高らかに笑っており、下女たちも幸せそうに働いていた。夢から覚め、涙を流したものだ。だが、それから数年が経った現在ではそのような物思いにふけることもない。物思いにふけったところで何か得るものがあるわけでもない。
数カ月ぶりに見る夢だ。夢の中で母親はそう感じだ。たいていの夢の中では奇妙な光悦感に包まれるものなのだが、今回の夢はやけに冷静に見ることができている。
視界中が桃色の霧状なものに覆われていた。足場に目をやるが、そちらも霧状のものが見えるだけだ。驚いて足を前後に動かすが、歩める様子はない。
――慌てなくていいんですよね。夢の中なわけですし。
母親は自分を落ち着かせようと言い聞かせる。そのかいあってか、次第に落ち着いてきた。
〈なかなか強い心ね〜〜〉
気づくと母親の目の前に一人の少女が姿を現していた。彼女の娘よりも幼い感じだ。
〈ここはあなたの夢なんだけど、私はあなたのものではないの〉
「どういうこと? それよりあなたは?」
母親は少女の瞳を見つめる。瞳に吸い込まれそうなものを感じ、慌てて視線をはずした。
〈答えてあげたいんだけど、ちょっと時間が足りないの。大事なことだけいうわね〉
少女は母親と同じ目線の高さまで浮遊すると、厳かに言い放った。
〈あなたの娘は目覚めます。彼女の足りなかった心が明日の朝早く流れてきます〉
「えっ?」
〈あなたは目覚めたのならば、すぐに川に向かいなさい〉
少女は告げ終わると、母親の額に軽く口づけをした。
気づくと母親は目を覚ましていた。
(二)
星下暦三二九年秋。
はぁはぁはぁ……。
サビヌは肩で息をした。全身が恐ろしく疲労感に支配されている。彼の足下には少年が一人倒れている。二人の少年と対峙したのはほんの数分前。かろうじて一人を無力化できたものの、もう一人の少年はかなり活力を残している。そして、取っ組み合いからいくらか距離を置いたところで様子をうかがっている少年がいた。ノバールである。
壁の向こうから投げ入れられた枝は、もはや折れている。この枝のおかげで、少年らに一気に押しやられることはなかったものの、少年の一人を気絶させる一撃を放った際に折られてしまっている。
――おいおい、話が違うぜ。以前見たときの動きとは別人だぞ。
少年は、左手で後方に手招きした。
――とはいうものの、こいつの息はもう切れつつある。ノバールをぶつけた隙に跳びかかれば、一発よ。
ノバールは、手招きする指の動きを視界におさめて立っていた。動くべきなのかどうか、どうも結論を出せない。
少年が振り返って怒りの眼(まなこ)をぶつけてきた。世の中にベストな選択肢を選べることはないのだ。ベターで満足すべきなのだろうか。
ノバールは、レナイに預かった品を懐から出し、麻布で覆っておいたその品物を開放しつつ、二人の元へ歩んでいった。
疲れ果てた体が一瞬激しく揺れた。サビヌの視界に、近づいてくる少年の右手に握られているのが入ったからだ。
鈍く光る金属の先端。まっすぐ尖った刃は、命のやりとりをしたことがない者の心を強く揺さぶる。この短き刃を握る者も、向けられる者も、そして、その場に居合わせた者も、経験したことがなかった。これから起こりうることを予想もできない人々のもとで、この品は振るわれる。
「……、おい、いいのかよ?」
前へ歩むノバールに、少年は声をかけた。無意識のうちに多少逃げ腰になりつつある。こういったやり方を認めがたく思うほど彼もまだ若く幼い。この場に彼よりも同格以上の存在がいれば、判断をその存在に委ねたであろうが、この場には、同格の存在はいない。先程まではいたのだが、意識を失っている。
少年が戸惑っているうちに、ノバールは彼の前を通り過ぎ、サビヌとの間合いを詰め始めている。ノバールが決意すれば、いつでも斬りかかることのできる間合いに入りつつある。
さすがに、体も徐々に動くようになってきた。サビヌは混乱のあまり、何をしたものか戸惑うばかりである。とりあえず、逃れることにした。視界内に凶器をおさめていると、恐怖に身が震える。だから、背を見せて逃げ出した。
サビヌは意識を無くす前に彼女の声を耳にしたような気がした。
(三)
足先に何かがぶつかった。しかし、彼は注意をそらさず、一人の少女を注視し続ける。
「ごめんなさ〜い、私の梨を止めてくださ〜い」
明るい女性の声が彼の鼓膜を刺激すると同時に、足先にさらなる接触が発生していた。彼は標的の気配を逃さないよう気を配りながら、仕方なく足元に視界を移した。
彼の周りに十数の梨が散らばっていた。梨を拾い集めながら視線を上にずらすと、女性が一人走り寄るのを確認できた。一目見て麻製とわかる、簡素な貫頭衣は、胸につるはしの図柄が目立っていた。この衣装は、僧院に勤める者がまとうことが多かったはずだ。
ハァ、ハァ、ハァー。
「ふぅ。助かりましたぁ。串焼きのおかげで ちょっとうっかりしちゃいまして」
彼のもとにたどり着いた女性は、頭を下げて謝意を表した。そして、一緒に梨を拾い始める。
「この梨はあなたのものですか」
「はい。あなたが止めてくださらなかったならば、どこまで転がっていったことやら。本当にありがとうございました」
彼は拾う手を止めずに尋ねる。彼女は手を止めて彼を見つめ、満面に笑みを浮かべて答えた。
彼はすばやく梨を拾い集め、彼女に手渡す。
「わぁ、商人さん、拾うの早いんですねぇ。どうしたらそんなに早く拾えるんですかぁ?」
女僧は、両腕で梨を抱きかかえながら、不思議そうな表情で彼を見つめる。彼女は彼の周囲を回り、その素早い動きの秘密を見つけ出そうとする。梨を抱きかかえることから別のことに注意が移ったせいか、梨はぐらつき始めてしまうのだった。
「あんまりジロジロ見ないでください」
彼は恥ずかしそうに懇願する。
「ごめんなさ〜い。はしたないまねをしちゃいましたわね」
彼女は彼を見つめるのをやめ、時計塔のほうを眺める。
「きょうは本当にありがとうございました」
彼女はお辞儀をしようとするものの、「またこぼすと大変ですからね」と商人に止められ、頭を下げるだけで済ます。そして、後ろを向いて立ち去っていく。
――どうやら、見失ってしまったようだな。いいタイミングで出てきたこの女の裏をとっておいたほうがいいかもしれんな。
「女僧殿、お名前をよろしいでしょうか?」
「私、アゾルデと申します。では、また。あなたにコムの造りし道が堅固なることを」
ツェナがその場にたどり着いたとき、サビヌが倒れていくところだった。
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