波紋(七)
男は帽子を深くかぶりなおす。連れの男が通りを歩く親子連れを指さす。
「あれか?」
「どうでございます? 御館様の御趣向にかなう娘ではございませぬか?」
視線を隠すことなく、帽子の男は娘を髪の毛から爪先まで眺めていく。その絡みつく視線に気づくことなく、少女と呼ぶべき年代の娘は、父親とともに住まいへと戻っていった。
「あの娘ならば、充分に楽しめそうじゃな」
胸よりハンカチを取り出すと唇をぬぐうのだった。
「姫の守護者が見つかったというか!」
杯を床に叩きつけ、男は物腰の低い男に声を激しく浴びせる。
「そのようでございます」
腰の低い男は、卓から控えの杯を取り、そこにワインを注ぎ、男へ渡す。
「御館様、そう焦られることはございませぬ。守護者といえ、まだただの小僧めでございます」
酒で主の動揺を静めながら、諭すように語りかける。
「力を開眼する前に始末すればよいということだな」
主は、腰の低い男の瞳を見つめている。すべてを任しきった表情だ。
「ですが、すぐことを起こす必要はないと愚考しまする。姫は守護者候補に心寄せているようでございますからな」
「男を失えば姫の気丈な心も脆く崩れるというわけじゃな」
「さようでございまする」
「御館様、先ほどの娘を選んだのには特別なわけがございます」
主の杯に酒を補いながら、耳元に囁く。
「下賤のものを試してみようという戯れだけではなかったか。さすがはヤグルグイじゃな」
「面白いことになりますので、ご期待くださいませ」
ヤグルグイは、主の前で床に伏し、深々と礼を行い、下がっていった。
「お父様、お疲れさま」
エムグラは、後ろで二つにまとめた頭髪を揺らしながら、父親の肩を叩いていた。トントン、トントン、リズミカルなリズムと振動が心地よい。
――大きくなったなぁ。
幼い娘に肩を初めて叩いてもらったときのことを思い出しながら、父親は目を閉じている。この十年はあっという間だった。この界隈はいい人ばかりで平穏な恵まれた時間を過ごすことができ、エムグラも素直に育ってくれている。
「お父様、気持ちいい?」
黙りきっている父親の様子を不安に思ったのか、弱々しく尋ねてきた。父親は目を開ける。
「あまりに気持ちよくて眠りかけていたのさ」
後頭部に娘の息がかかった。安堵のため息をついたのだろう。
「よかった、それならいいの」
肩叩きが再開された。
娘もあと一年かそこらで嫁に行っておかしくない年代になる。正直、ここまで育てあげられる自信はなかった。この街で見つけた仕事も順調に進んでいる。妻も健康だし、娘も健康。娘の男友達の怪我もどうにかなったようだし。
明日から始まる大きな新しい仕事に備えて、今日は早めに寝るとしよう。
(八)
祭りの準備で町中が浮かれ始めている。心静かに神への祈りを追い求める宗教施設も例外ではなかった。
「ヒロ師、ここに置いておきますね」
若い侍僧見習いが花瓶を卓上に据える。
「おまえさん、おかしいと思わなかったかね」
花瓶の中であでやかな姿を披露している植物を見つめながら、クロパーマル・ヒロは尋ねた。
「はい? 何がでしょうか?」
「これはな、この季節にこんな姿を見せてくれるものではないのだよ」
ヒロは慎重に花びらに触れる。
「えっ、でも、花園一面にきれいな姿を見せていましたよ」
ため息をつく。
「植物は我々に無数のことを教えてくれる。道を支える大地に芽生える命は、我らに道を教えるためにコムが与えてくれた、ともいうぞ」
「すみませんでした。これからは気をつけます」
「『すみません』もいかんな。謝るときは『申し訳ありませんでした』がベターだ」
うなだれる若者から花へ視線を戻す。真っ赤な花びらだった。雪の中でこそ映えるような赤さではあったものの、緑の草々の中でもそれなりの存在感を誇示することはできるかもしれない。
「これゃ、祭りで一波乱あるかもしれんな」
侍僧見習いを下がらせ、ヒロは呟くのだった。
扉を開ける。屋内から空気が流れ出す。その空気に載った匂いがサビヌの鼻を刺激する。このような下町では実にありふれた匂いだと第三者は感じるであろうが、彼にとっては真に懐かしい匂いであった。
「帰ってきたんだ……」
家の匂いを体中で感じるため深呼吸する。そして、彼は呟いたのだ。
「おかえり。今日はおまえの好きな干し虫の焼き物だよ」
サビヌの脳裏に女性の顔が浮かび上がった。――ツェナはこれが嫌いだったね。
彼の視界が前にずれていく。彼の意思に関係なく足が前へと押されていった。
「せっかく帰ってきたんだから、とっとと入りなさい」
息子を屋内に入れ終わると、父親は彼の前へとまわる。
「お帰り、サビヌ」
ビーレブはくたびれた紫の衣に身を包み、肩には手ぬぐいをかけている。サビヌの記憶通りの姿といえる。つまり、いつも通りの我が家に戻ってくることができたというわけだ。
「今年は祭りが楽しみなのだろう」
父親は息子の上に手のひらを乗せ、微笑みかける。お湯の中にいるせいか、サビヌの顔は血の気が多くなっている。
「その顔だとうまく女の子の算段が済んだようだなぁ〜〜、父さんのころと比べて最近の子供は進んでいるなぁ」
恥ずかしさのあまり、お湯の中に潜っていく少年の姿を周囲の大人は温かく見守っていた。
「私にこのような仕事が?」
ドナルドは机を見つめている。職場から持ち帰ってきた羊皮紙がそこには開かれていた。
「お父さん、お茶よ」
今から娘の呼ぶ声がする。父親は慌てて書類を丸め、筒に戻した。
海からの風が星空を隠す余計な雲を流していく。この時代、人の持つ光は星空を乱すほどの光量を持つことは稀だった。星は豊かな光景を人々に与えていた。
明日も晴れるだろう。
(九)
木剣を軽く握りなおす。この重さならば、あの小僧でも筋を痛める恐れはあるまい。
「さてはて、どうやって知りあったものやら」
薄汚れた皮鎧をまとった若い男は、下町を眺めていた。
――まぁ、考え込んでも仕方がない。動いていくだけだ。
足を踏み入れていった。
久々の礼拝堂。サビヌの快復を皆が祝ってくれた。かなり長い間、この学び舎を欠席していたのではあるが、年上の女性二人がいろいろ教えていてくれたおかげで、不都合なく時を過ごすことができた。
ツェナの歴史に対する視点、アゾルデの分かりやすい話、診療所での暇な時間に過ごしてきた会話が彼の知識量を適格に増やしていた。アゾルデによれば、彼女自身旅に出る前に、教会周りの子供たちに学び舎で教えていたことがあるそうである。そして、ツェナのもののとらえ方――彼が十数年間生きてきた中では触れたことのないものであった。
今日の話題は、秋祭りの由縁であった。この街で育ってきたものにとってはなじみ深いものであり、何を今更と思うものでもある。
「英雄ローマがこの地で、魔獣イナートカバーを倒したそうです。これにより、冬がこの地方に戻ってきました。数年にわたり続いた夏に苦しむ人々は人だけでなくありとあらゆる獣たちが喜び、ローマを褒め称えたのよ」
老婆は糖菓子を口に放り込み噛み砕く。その音が話の余韻に奇妙なアクセントを与えていく。老婆に近く座った小さな子たちは、血沸き肉躍る冒険譚が聞けるのではないか、と興奮して老婆を見つめている。サビヌら少年らにとっては、何度も聞いた物語ではある。だがそうはいっても語り部であるこの老婆が語るならば、今日ここでまた同じ物語を聞いても興奮するものだ。レナイのようなひねくれた者ではなければ、聞くことを拒みはしない。
だが、今日の語りは英雄譚ではなかった。
「街の至るところで祭りを祝う準備が行われていますね。皆さんのお家ではどんな風に準備をしていますか?」
老婆の導きで各人が家族でどのような祭りの準備をしているかを順に語っていった。
――そういえば、ツェナから祭りでの待ち合わせとか教えてもらってないなぁ……。
祭りはもうすぐだ。
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